長文集

長い文章

ケツからブラックホール

吼えろ。

トリスタン・ツァラ『七つのダダ宣言』)

 

 腐女子と呼ばれる連中は作品に対して「尊い」と評価をしばしば下すのだが、そんなこと言われても興味がない人々にとっちゃ「はあ、そうですか(何言ってんだこいつ)」で終わりだ。

 あるいは別の例を挙げても構わない。『君の名は。』に対して「エモい!」しか言わない男、『逃げるは恥だが役に立つ』に対して「ヤバい!」しか言わない女、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』に対して「美しい」しか言わない狂信者(僕のことだ)、黙って神様を信じなさい不心得者が、わからんやつにゃセンスがねえ、うんぬんかんぬんエトセトラ・・・・・・。

 

 要は距離の問題である。なにごとかに心を動かされたとき、そしてその心の動きを人に伝えたいとき、説明をなるたけ分かりやすくするのには不可欠な冷静さと客観がすっからかんだと、その目的は果たされないのだ。論理にもとる言葉は、発言者にしか伝わらない。いやそもそも発言者にだって把握できているか怪しいものだ。

 気違いじみた支離滅裂な発言で場を切り抜けようとしたハムレットが誰にも理解されなかったのがいい証拠だ。

 伝達に必要なのは論理であり、それは冷静さと対象化(伝えたいことと自分との間に距離を置き、客観的たるべくその立ち位置を保とうとし続けること)の態度からしか生まれえない。

 スカイツリーがどんな建物かを説明するのに、展望台からの景色だけを人に見せるのは馬鹿だろう?全体を撮影するには、遠くからカメラを構えねばならない。伝達に必要なのは、伝達されることと自分との間の距離なのだ。

 

  だから、「尊い!」「エモい!」「美しい・・・・・・(呆)」だなんて発言は、伝達として0点である。対象と話者との距離がゼロだからだ。(もっともこれは、距離が大きいほど伝達として出来がいいということではない。何事にも適切な距離というものがある。遠ければ遠いほどいいってもんでもないのだ)

 先のスカイツリーの例で書けば、全景が見たい人に展望台からの景色しか見せない馬鹿である。

 もっとも、これは致し方のないことではあるのだが。どういうことか。

 彼らは感動のあまり、対象とがっちり結びついて離れられなくなったのだ。そうしたキメラたちに、もはや言葉が発せられるはずもなく、ただの唸りを響かせるのみ。理解ある人ならともかく、そうでない他人にとっちゃ耳障りな雑音にすぎない、悲しいことだが。

 

 しかし論理で人は動かない。縛られることはあっても。

 

 ここで僕の頭に浮かぶ考えを表す言葉のド頭は「でも」だ。

 「でも、そんな唸りの中にだって人を動かすものがあるんじゃないの?」

 そして次に浮かぶ考えはこう。

 「そりゃあ、今までもあったしこれからもあるだろう」

 そのはずだ。論理もクソもない咆哮が、不思議な引力で耳にした者を引きずり込み、そいつを決定的に変えてしまう。そんな危険すぎる叫びがこの世界には確かに存在する。その叫びに籠められたものが善意にせよ悪意にせよだ。

 まるで『新世紀エヴァンゲリオン』の人類補完計画のように、自分とそれ以外の境界線をどろどろに溶かし尽くしてすべてを一つに変えてしまおうとうごめく不気味なもの、人間をたやすく溶かすほどの灼熱。セイレーンもびっくりの歌声だ。

 

 美というのは、ランボー風に書けば本当に尻軽のあばずれで、宿る場所を選ばない。叫びの大半が掻き消えていく中、ふとした隙をついて、その中のどれかに取り憑く。そうして取るに足らぬ雑音を、「咆哮」とでも書き表すべき恐ろしい脅威に変貌させてしまうのだ。

 あるいは19世紀みたいに、そんなあばずれが振り向いてくれるのを指をくわえて待たずとも、厳密な計算とひとさしの狂気で、力づくに振り向かせる人々もいる。天才と呼ばれる人々だ。真の天才が一握りなのは、こんな強姦魔が何人もいちゃあたまらないから勘弁してくれという世界からの泣き言が理由なのかもしれない。

 叫びに美が宿る。それは咆哮になる。それは熱を持つ。しかも、その熱は伝染る。

 とにかく偶然にせよ、必然にせよ、美が宿る声は論理の鎖を引きちぎってわれわれを音の鳴る方へ引きずり込む。おにさんこちら、てのなるほうへ・・・・・・。

 

 ところで、僕はわりかし無責任な気質だ。始めに書いたようにマッドマックスが大好きで、本気であんな荒廃が訪れたって構わないと思っているほどだ。世界がどうなろうと知ったこっちゃないのだ。「今から数ヶ月後、地球に隕石が落ちてきて全人類滅亡します!」とか映画の『アルマゲドン』みたいにいきなり言われたらちょっとなあ、やだなあ、とは思うけど。だから無責任に破滅へ真っ逆さまな咆哮が地球の鼓膜をぶち抜いても、別にいいんじゃない?とか思ってしまう。アメリカに「虐殺の文法」(伊藤計劃)が蔓延するのも大歓迎だ。

 名作アクションゲーム、『THE LAST OF US』でもこう言っていた。

 「どうせ最後には、みんなおかしくなっちゃうんだから」

 

 だから人類史の行方なんてさっぱり忘れて、どいつもこいつも叫ぶといい。ただ叫ぶのではない。死ぬ気で叫ぶといい。さすればあるいは、無様な咆哮を高らかな凱歌に、黙示録のラッパに変えられるかもしれない。

 

 ・・・・・・ちなみにそんな壮大な話はともかくとして、僕は感想に「エモい」を使われるのが嫌いだ。イラッとする。これはそんな日常のしょうもない苛立ちから生まれた、無責任で下品で荒唐無稽な文章だ。おしまい。

21世紀版ゴールドラッシュ

ああ 私の魂よ 不死の生に憧れてはならぬ。

可能なものの領域を汲みつくせ。(ピンダロス『ピュテイア祝捷歌第三』)

 

 うんこの話から魂の話に繋がる荒唐無稽な記事だ。

 まあ、とりあえずこの動画でも見てくれ。

   

www.youtube.com

  うんこは本物ではないのかもしれないが、それはこの際どうでもいい。僕がこの動画を見て抱いたのは「インターネットでの注目を集めるためにそこまでしてしまうのか?これでは尊厳を切り売りするピエロじゃあないか?いや、ピエロにだって元来、宮廷のエンターテイナーとしての誇りはあった。これじゃあ奴隷よりも酷くないか?心は錦の奴隷でさえ、注目それだけのために自らを貶めることはなかったろうに・・・・・・」という疑問と狼狽だ。

 

 2016年、外国ではどうだか知らないが、(まあどうせよその国でも同じようなバカが同じようなことをやっているのだろうが)少なくとも「いいね!」のためだけにうんこを食べる国がある。そういう性癖で望んで食べる、あるいはそういう性癖の変態から金を稼ぐため嫌々食べるのならともかく、食糞をすすんで行う奴がいる。注目とサムズアップアイコンのために。

 おそらくそれは誇りに基づいた行動ではない。「人から面白いと評価されること、それが誇りだ」と彼らはうそぶくかもしれないが、自らの裡に根付いていない行動原理は虚しいものだ。それこそピエロのように踊らされているだけだ。

 それゆえ、そこには尊厳がない。彼らは尊厳を切り売りしているのだ。(いや、売ってさえもいないのか)

 

 尊厳。行動の後付けで貼り付けられる観念にすぎなくとも、やはりそれは我々にとって解体してはならないブラックボックスであるはずだ。越えてはならない一線。失ってはならないもの。これは出典も真偽もあやふやな情報だが、なんでも太古のウホウホどもでさえ同類が死んだときには手を合わせた、つまり祈りのようなジェスチャーを取ったのだという。我々の血には脈々と息づいた、侵すべきでない美徳があるのだろう。性善説を唱えたいわけではないが。

 

 そんな尊厳が喜々として侵されているのを僕たちは動画で目撃する。

 

 う~むと考え込む君たちをよそに僕は、伊藤計劃という夭折したSF作家の『ハーモニー』なる小説を思い出す。

 あらすじを大まかにまとめると、(以下ネタバレにつき文字反転)この小説のラストではほぼ全人類が固有の意識を剥奪、データ化したそれらをサーバーで一元管理され、感情でさえもプログラムのコードのようにタグ付けされてしまうのだ。

 人間の意識でさえも0と1に書き換えられるのなら、魂はどこにある?そんなもの、もうどこにもない。鮮やかなまでの断言を叩き付けて物語は幕を閉じる。

 

 およそ考えうる限りの中でも最大のブラックボックスである魂、それでさえも時の流れと進み切った科学にひん剥かれるかもしれないぞ。そういう可能性がどこまでもリアルに示されるのである。

 

 だが本当に可能性だけか?僕たちは現に尊厳が陥落する様を見たではないか。尊厳やア・プリオリな倫理、記憶、感情、そして魂。人間性と見なされてきたなんもかんも、丸裸にされてバラバラにされるだろう。原因は何であれそれは避けられないのだろう。これは単に行き過ぎた悲観かもしれない、だが見積もる程度に差こそあれ問題は間違いなくここにある。

 しかし「だから黙って『よいではないかよいではないか』されるその日を待て」というのは、死刑宣告と同じだ。潮はどう足掻こうと満ちるが、陸地へ逃げることはできるはずだ。

 

 と、いうことで僕はここに一つ提案を書く。善き人間性のブラックボックスが片っ端から荒らされてゆくのなら、新たな箱を生み出し続ければいいのではないか。魂の鉱脈を掘り起こせ。数千年をかけて探ってもなお未知の領域なのだ。その気になればいくらでも見つかるはずだ、「乳と蜜の流れる場所」は。

 

 僕の大好きな小説、『ディスコ探偵水曜日』の主人公のセリフで記事は終わる。

そういう燃料を時々注入されながら世界は毎日を正しく良き方向に生きていくしかないのだ。(ディスコ・ウェンズデイ)

  

『Fate/Zero』切嗣過去編のリライト:後編

 夜。不自然なまでに人通りがなく、街灯さえない欧州のある街の路地に、必死な様子で逃げ惑う太った男の靴音がいやに響き渡る。

 男はちらちらと後ろを振り返りながら走るので、アーチ状の回廊の柱に身をぶっつけてしまう。苦し気な喘ぎを漏らし、汗を散らす。しかしそれに構いもせず、もつれかけた足を振るい、再びがむしゃらに駆けてゆく。

 その様子を、遠く離れた石造りの建造物の屋上から観察している青年がいる。青年は無線機に何事かを伝えている。

 「ナタリア、聞こえるかい?もう少しだ」

 無線機からはナタリア・カミンスキーの平静な声が返ってくる。

 「了解」

 男が回廊の十字路に差し掛かり、周囲に視線を巡らせていると、青年が

 「ナタリア。今だ」

 と、指示を出す。

 それと共にナタリアは回廊の梁から飛び降り、男の前に立ちはだかって道をふさぐ。男は狼狽したような声を出して数歩後ずさり、右手の細い路へと逃げ込んでいく。

 その路の先は袋小路である。数本の柱とその根元に荒石がごろごろと転がっている場所である。屋根は半壊しており、月明かりがわずかに射し込んでいる。男は一際太い柱に背をもたれさせ、落ちくぼんだ目で今しがた通って来た道を見る。ナタリアが追ってこないかを警戒しているようである。

 と、雲が晴れて、月明かりがその空間をより広く照らし出す。袋小路の入り口、男が今まで警戒して見つめていたそこに、青年が銃を構えて立っている。

 細く引き締まった体つき、全身黒ずくめの装い。しかし何より特徴的なのは、その目である。背丈から推測される年齢とは似合わない、暗く濁った瞳をしている。その目が男の目を冷たく射抜く。男は口をだらしなく開き、命乞いでもするかのように、両手を前にかざす。青年はその挙動さえただ冷徹に見ているだけである。青年の指が力む。

 つんざくような銃声が、夜の街の静寂を掻き乱す。

 

 青年は、名を衛宮切嗣という。

 

 

 「島の外まで連れ出されたあとのことは、自分で考えろ」

 ナタリアは島から脱出するボートの上で切嗣にそう吐き捨てたが、結局のところ、いまだ幼い切嗣の面倒を数年間に渡って見るのは、彼女の役目となった。

 面倒を見る。それは、衣食住を与えるということだけでなく、生計の立て方、即ちナタリアと同じ生き方、切嗣の父のように人災をふりまく魔術師たちを殺す、狩人としての生き方を叩き込むということも意味していた。

 ナタリアは自らの稼業の説明に、「魔術協会」という組織の名を持ちだした。

 魔術協会。2世紀ごろ、散り散りになっていた魔術師たちを統括するために結成されたギルド。魔術師たちに資金、人材、若手の教育、研究施設や機関などを提供する見返りとして、彼らに厳格な法を科す、イギリスや北欧、エジプトを中心に発達した組織である。

 この組織の設立まで、魔術師たちは一般人への被害をいとわず、みだりに研究を行っていたのだが、その放埓も影をひそめ、結果、現代において魔術の存在はほぼ完璧に秘匿されることになったのだという。

 ほぼ。つまり、組織の設立から十数世紀が経ち、巨大なものになった今でも、放置しておけば魔術の神秘が表の社会に露見するやもしれぬ危険因子が存在する。外道魔術師と呼ばれる者たちのことだ。禁を破り甚大な被害を出すそうした魔術師を、協会としては当然看過するわけにはいかない。自分たちで始末する必要がある。

 また、彼ら彼女らとは異なる理由で身柄を狙われる、封印指定と呼ばれる魔術師もいる。数ある魔術の中でもとりわけ希少なもの、その魔術師以外には行使できないものを操る魔術師たちのことだ。協会はそのような魔術師たちを格好の研究材料として生涯幽閉しようとする。もっとも、封印とは言うものの、往々にしてエージェントに殺害され死体だけが確保されるのが実態である。そのような優れた能力を持つ魔術師を生け捕りにするのは至難の業であること、また死体であろうと魔術の痕跡は消えないので、研究価値はなお残っていることなどが理由であるようだ。当然、封印指定が発令された魔術師たちは、ナタリア曰く「ホルマリン漬け」にされぬよう協会から逃げ、隠遁生活に入る。切嗣の父があの島のような僻地を研究所にしていたのも、これが理由であるらしい。

 外道魔術師と封印指定。協会が派遣する正規のエージェントではなく、フリーランスのハンターとしてそうした魔術師たちを狩り、報奨金を受け取る。それが、ナタリア・カミンスキーの稼業だった。

 

 「何があろうと、手段を選ばず生き残る。この稼業について、あたしが決めた鉄則だ。何が起きようと、自分の命をまず最優先にする。他人を助けようとして自分が死んでしまったら、元も子もないからな」

 ナタリアの家に住み着いてから数ヶ月後、彼女の稼業を手伝いたいと何度も申し出る切嗣の煩わしさにいよいよ耐えきれなくなったのか、彼女は切嗣の目を見据えてこう返す。

 「坊やにその覚悟はあるか」

 ───ケリィはさ、どんな大人になりたいの?

 「・・・・・・みんな救えるなんて、思ってないさ」

 映り込む青の満天が、どす黒い紅色に汚されていく。

 切嗣の唯一の父は、断末魔もあげずに死ぬ。

 「それでも僕は、1人でも多く救いたい」

 切嗣の返答を反芻しているかのような間を空けて、ナタリアは捨て鉢に答える。

 「好きにすればいい」

 

 それからの時間は、血と硝煙にまみれて過ぎる。ナタリアは切嗣へ、徹底的に狩人としての技術を仕込む。尾行。変装。話術、武術、戦術、魔術。兵器の扱い、毒薬の扱い、爆薬の扱い。

 ナタリアと共に戦場へ征く切嗣は、その度ごとにあの島で起きたような惨劇をまざまざと見せつけられる。世界のあらゆる場所で、それは日常茶飯事のように繰り返されていると知る。魔術師を殺し、魔術師を殺し、魔術師を殺す。背丈が伸びきるころにはもう、切嗣は一人前の狩人となっている。

 

 中東のとある紛争地帯。歴史的な建造物がなお数多く残る文化的な街も、銃声がこだまする戦場となっている。協会の目をくらますため、あえてそのような紛争地を根城としていた外道魔術師を切嗣とナタリアは殺す。

 仕事を終えた2人がそこの屋上に上がると、死体が山と積み上がっている。見れば、まだ小柄な男児の死体もある。開かれた瞳孔を晒し続けている死体のまぶたをそっと閉じ、それを両手で抱えて切嗣は誰に言うでもない様子で言う。

 「・・・・・・意味は、なかったのか。僕は、これ以上こんな犠牲を増やさないために、父さんを殺したはずだ」

 切嗣の、熱意を帯びた義憤をしかしナタリアは一笑に付す。

 「そいつは1人殺ったくらいじゃ、無理な相談だね。今回のような連中を世界中からすべて殺し尽くす。そんなことがもしできたら、叶うかもしれんが」

 「・・・・・・冗談だ。本気にするな」

 

 

 切嗣が煙草を吸うほどの歳になったある年のある日、ナタリアのもとに外道魔術師の情報が舞い込んでくる。

 『魔蜂使い』の異名で知られるオッド・ボルザーク。限定的ながらも自身の死徒化に成功し、針に死徒化をもたらす魔術を施された無数の蜂を操る外道魔術師である。

 ファックスで送信されたボルザークに関する資料をにらみながら、

 「こいつは私が殺るよ。ボルザークは、私が一度取り逃がしている獲物でね。後始末は自分でやるのが筋だろう?もっとも、因縁があるのは君も同じか」とナタリアは言う。

 死徒仕事を手伝ってから無数の魔術師を仕留めてきた切嗣だが、直接に死徒を相手取る仕事は初めてである。父が研究し、初恋の人が堕ち、島を地獄に変えた死徒。鋭い目つきで切嗣は頷く。

 「・・・・・・僕はどうすれば?」

 「ボルザークは数日後のパリ発、ニューヨーク行きの飛行機に乗るようだ。飛行機には私が乗る。ニューヨークにはおそらく、奴を出迎える仲間がいるはずだ。坊やにはそいつらの掃除を頼みたい」

 「ボルザークを1人で殺るのかい?」

 「ああ。奴も客席までは蜂を持ち込めない。そこが最大のチャンスだ」

 そうしてナタリアはパリへ、切嗣はニューヨークへと赴く。仕事が始まる。

 

 

 防護、回避の魔術を行使する暇も与えず、数百メートル離れたアパートの小窓からの狙撃でボルザークの協力者を仕留めた切嗣に、無線が飛んでくる。ナタリアからの、ボルザークの殺害に成功したという連絡である。

 「あっけないもんだったね・・・・・・。でも、どうやって?」

 「あらかじめ添乗員に暗示をかけ、機内整備の段階でボルザークの座席にルーンを書かせておいた。あとはボルザークの後ろに座った私が、適当なタイミングでそれを発動するだけだ。体内に作用する呪いだから、外傷はない。まさかボルザークも民間機内に罠が仕掛けてあるとは思わなかったろうね。協会指定のエージェントは人払いをしたうえで直接殺しに来るのが常だから。さて、坊や、機内からボルザークを運び出す準備はしてあるんだろうね?」

 「ああ。救急車を空港付近に停めてある。あとは急病患者を搬送する、お医者さまがいればオーケーだ」

 小さな笑いとともに、

 「無免許でよければ」と聞こえてくる。白衣は手荷物の中に用意しておいたのだろう。

 だが、笑った調子の声が一変する。

 「ん?おい・・・・・・どうした、おい!」

 「・・・・・・グールだ」

 「面倒なことになったね・・・・・・ボルザークは、自分の体内にも蜂を仕込んでいた。機内はもう蜂とグールがうごめく地獄になっちまった」

 体内に作用する呪いだから、外傷はない。皮肉にも、民間人を巻き込まぬよう配慮した殺害方法が裏目に出たという。

 「ナタリア、脱出を!」

 「何フィート上空だと思ってるんだ。あいにくスカイダイビングの準備はしちゃいない・・・・・・機体の揺れが激しい。墜落する前に、この飛行機をなんとかせにゃならん」

 「ナタリア・・・・・・」

 「心配するな。私は帰るよ。必ず生きて帰る」

 「・・・・・・」「何か言うことは?」

 「ああ・・・・・・ナタリアならできるさ」

 「それでいい」

 それきり無線は切れる。切嗣は悔し気に拳を膝に叩き付ける。

 今、切嗣が何を考えているのか、それが見て取れる。

 

 切嗣は深夜のニューヨークを奔走し、ブラックマーケットの人脈を通じて必要な道具を準備する。モーターボートを略取し、ジョン・F・ケネディ国際空港を取り巻く洋上へと走らせる。切嗣がモーターボートを落ち着けたところで、ナタリアからの無線が入る。

 「聞こえてるかい?坊や」「感度良好だよ、ナタリア」

 「そりゃよかった。さて、良いニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?」

 「良い報せから話すのがお約束だろう?」

 「オーケイ。まず喜ばしい話としちゃあ、まだ生きてる。飛行機も無事だ。機長も副操縦士もご臨終ってのが泣けるところだが、操縦だけなら私でもできる。セスナしか操縦したことはないけどね」

 「管制塔と連絡は?」

 「つけたよ。初めは悪ふざけかと疑われたけどね。優しくエスコートしてくれるとさ」

 「・・・・・・で、悪い方は?」

 「ああ。・・・・・・結局、咬まれずに済んだのは私だけだ。乗員乗客300人、残らずグールになっちまった。コックピットの扉は頑丈だが、その1枚向こうは地獄絵図だ。ぞっとしないね。あとは着陸するだけだ。もっともそれが一番不安なんだがね」

 「・・・・・・あんたなら、やってのけるさ。絶対に」

 何があろうと、手段を選ばず生き残る。何が起きようと、自分の命をまず最優先にする。

 私は帰るよ。必ず生きて帰る。

 そう。ナタリアはきっと着陸に成功し生き残る。

 「空港まであと50分ちょっと。祈って過ごすには長すぎるね。坊や、しばらく話し相手になっておくれ」

 それから2人の会話が始まる。話題はつい先ほどまでの互いの仕事についてから、どんどん過去の思い出へと時間を遡る。

 「坊やがこの稼業を手伝いたい、って言いだしたときにはね、ほんと頭を痛めたもんさ。どう言い聞かせようと諦めそうになかったからねえ」

 「そんなに僕は、見込みのない弟子だったのか?」

 「違う。見込みがありすぎたんだ。度を過ぎて、ね」

 頸、後頭部へと的確に撃つ。念のため、切嗣は背骨にも2発を撃ち込む。子供が、それも実の息子がやったとは思えぬほどの正確さで殺されている。

 「指先を心と切り離したまま動かすっていうのはね、大概の殺し屋が数年がかりで身につける技術なんだ。坊やはそれを最初から持ち合わせていた。とんでもない資質だよ」

 「でもね、素質にあった生業を選ぶってのが必ずしも幸せなことだとは限らない。才能ってやつはね、ある一線を越えると、そいつの意志や感情なんぞおかまいなしに人生の道筋を決めちまう。人間そうなったらおしまいなんだよ。何をしたいかを考えず、何をすべきかだけで動くようになったらね・・・・・・そんなのはただの機械だ。人の生き方とは程遠い」

 思わぬ切嗣への配慮があったことに驚き、切嗣は本音を漏らす。

 「僕はさ、あんたのこと、もっと冷たい人だと思ってた」

 「何を今更。その通りじゃないか。私が坊やを甘やかしたことなんて、一度でもあったかい?」

 「そうだな。いつだって厳しくて、手加減抜きだった。いつまで経っても坊やだなんて呼び続けるくらいだ。あんた、手抜きせずに本気で僕のこと仕込んでくれたよな」

 「・・・・・・男の子を鍛えるのは、ふつう父親の役目だからね」

 声には悔恨の色がにじんでいるように、切嗣は思う。

 「父親から鍛えられる未来を奪っちまったのは、この私が原因みたいなもんだ。私と会わなきゃ、きっと衛宮親子は島を二人で脱出していたんだろうしね。まあなんて言うか・・・・・・引け目を感じないでもなかったんだろうさ」

 照れ隠しだろうか。ナタリアは苦笑しながら言う。

 「あんたは、僕の父親のつもりで?」

 「男女を間違えるなよ失礼な奴め。せめて母親と言い直せ」

 「・・・・・・そうだね。ごめん」

 母親。実母を物心つくまえに亡くしていた切嗣にとって、確かにナタリアは母親だった。

 「長い間、ずっと独りで血なまぐさい毎日を過ごしてた。自分が独りぼっちだってことさえ、忘れちまうほどにね。だから、まあ・・・・・・それなりに面白おかしいもんだったよ。家族、みたいなのと一緒ってのは」

 「僕も・・・・・・僕も、あんたのこと、まるで母親みたいだって思ってた。独りじゃないのが嬉しかった」

 それは切嗣の本心だ。そうだと分かる。

 「あのなあ切嗣。次会うときに気恥ずかしくなるようなことを、そう続けざまに言うのはやめろ。土壇場で思い出し笑いなんぞしてミスしたら、死ぬんだぞ?私は」

 「・・・・・・ごめんよ、悪かった。それと、名前。呼んでくれて嬉しい」

 切嗣に謝罪の意はない。この発言への謝罪の意はない。切嗣が謝りたいのは、もっと別のことである。そうだったと覚えている。

 満天の星々のなか、高度を下げてきたナタリアの操縦するジャンボジェットの衝突防止灯が、滑走路周辺の洋上で待機している切嗣の視界に捉えられる。

 「ひょっとすると、私ももうヤキが回ったのかもしれないね。こんなドジを踏む羽目になったのも、いつの間にやら家族ごっこで気が緩んでいたせいかもな。だとすればもう潮時だ。引退するべきかねえ・・・・・・」

 切嗣は、モーターボートに積んであった巨大なケースを開ける。携行地対空ミサイル。その部品をすべて組み立て、肩に担ぐ。

 「仕事をやめたら、あんた、その後はどうするつもりだ?」

 切嗣の目が照準を覗き込む。すぐにでも、機体は射程距離に入るだろう。

 「失業したら・・・・・・はは、今度こそ本当に、母親ごっこしかやることがなくなるなあ」

 「ごっこなんかじゃない─────」

 射程距離に、入る。切嗣は、腰を据えて発射の態勢をとる。

 「あんたは、僕の」

 どのみちその時が来たら、お前はやるべき仕事をやらねばならないんだ。

 今ならまだ、きっと、間に合うから。

 どうして殺してくれなかったの?

 どうして島のみんなを死なせちゃったの?

 指先を心と切り離したまま動かす。

 「殺して」

 「本当の、家族だ・・・・・・!」

 切嗣が、いや、が、ミサイルを発射する。それは僕の狙い通りに、僕の殺意通りに過たず機体に命中した。

 深夜のニューヨークの空に、凄まじい爆発が煌めいた。それは、僕のかけがえのない母親の命を散らす光だった。

 「・・・・・・見ていてくれたかい?シャーレイ・・・・・・」

 僕は、いないはずの彼女に向けて、語り始めた。

 「今度もまた殺せたよ。父さんと同じように殺したよ。君のときみたいなヘマはしなかった。僕は、大勢の人を救ったよ・・・・・・」

 空中からの脱出は不可能、なおかつボルザークの死体を回収しようとするナタリアが取りうるすべは、空港への着陸しかなかった。セスナしか操縦したことのないナタリアが、洋上着陸などできるはずもない。僕が救急車で空港へと行き、ナタリアとボルザークの死体を回収する。だが、そうすると機内のグールはどうなる?魔術協会へ連絡したところで、駆けつけてくるころにはもう遅い。グールは機内から解き放たれ、空港の人間、そしてニューヨーク中に仲間を増やすだろう。何人の死者が出る?

 ナタリア1人を切り捨てることで、何千人、何万人を救えるのだ。

 僕は、なすべき正義をなした。そのはずだ。

 「・・・・・・ふざけるな・・・・・・ふざけるなッ!馬鹿野郎ッ!」

 だけど、僕はただ慟哭することしかできなかった。

 僕は、島の全景から母親を殺すまでをカメラのように、機械に徹して見てきた僕は、過去の自分がひざまずきひたすらに泣きわめくのを見ている。

 僕は思い出す。これは過去の記憶だ。現実の僕は、あれからナタリアの稼業を引き継ぎ、『魔術師殺し』の呼び名を得て、それを買われ、雇われたマスターとして、日本の冬木市で第4次聖杯戦争に参加している。これは僕が見ている夢だ。

 少年が、命の数を天秤にかけ、父親を殺し、母親を殺す非道な青年となったその時になってはじめて、僕というカメラは自分と衛宮切嗣を一致させることができたのだ。そうなる以前の在り方は、僕が「衛宮切嗣」と定めた生き方に反していて、自分と一致させられなかったからだ。

 ───ケリィはさ、どんな大人になりたいの?

 僕は、そして夢の中の過去の僕は、その言葉を思い出した。

 そうだ。あのときは言えなかったけれど、僕は正義の味方になりたかったんだ。

 みんなを救う正義の味方に。

 一を殺して多を救う、非情な機械ではなく。

 何をしたいかを考えず、何をすべきかだけで動くようになったらね・・・・・・そんなのはただの機械だ。人の生き方とは程遠い。

 カメラ。記述されたコードに縛られ行動を規定するソフトウェア。今の僕は、機械だ。そうあれと僕が定めた。シャーレイの問いが、僕の中にいつまでも響いている。これからも僕は、最大多数の最大幸福のため少数を切り捨ててゆくだろう。僕に刻み込まれ、ことあるごとに浮かび上がるそうしたコードが僕という機械の行動を決定する。

 構わない。そう僕は断ずる。

 世界を変える力だよ。いつか君が手に入れるのは。

 今回のような連中を世界中からすべて殺し尽くす。

 僕は必ず聖杯を手に入れる。聖杯の力で人類を救済しよう。終わりのない戦争の連鎖を終わらせよう。この戦いで僕が流す血が、人類最後の流血であるように。

 やがて、夢のニューヨークにも日が昇る。過去の僕がゆっくりと立ち上がり水平線を睨み付ける。僕もまた、この夢から覚めて戦いに戻る。

 もはや迷いはない。僕は奇跡をこの手に掴んでみせる。

 たとえその道程で、この世全ての悪を担うことになったとしても。

『Fate/Zero』切嗣過去編のリライト:前編

 島がある。全体を一望できるだけの高さから俯瞰しても、家々の様子が見て取れるほどの大きさであるから、小さな島と言える。島の周囲は陽光の注ぐ碧色の海が広がるばかりである。他の島は見当たらない。

 島の細部を拡大して見る。漁具の積み重なった入り江の付近に30戸ほどの小さな家が集中している。目を引く高さの建造物と言えば、協会くらいのものである。その集落以外はみなジャングルで、人気はない。しかし漁村から遠く離れた、ジャングルの最奥部だけは木々が刈られている。そこには屋敷がある。屋根は色あせ、庭の雑草は茂っている。手入れはされていない。所有者は無頓着な気質であるようだ。

 そこへ古びた様子のピックアップトラックが、悪路に車体を揺らしながら来て停車する。運転席から少女が、助手席からは彼女より幼く見える少年が降りてくる。

 「着いたよ、ケリィ」と、少女が言う。

 「毎回言ってるけどさあ、もっと丁寧に運転してよ、シャーレイ」と、少年が言う。

 

 

 「できたぞ切嗣。これでちょうど、100体目の実績だ」百合に似た白い花を植木鉢に抱えた中年の男が、少年に語りかける。植木鉢には「100」と、少年の父特有の細く斜めがちな筆跡で書かれたシールが貼り付けてある。

 「父さん、新作ができたんだね」

 「ああ。時の流れを操作して作った、枯れない花だ。これ以上生長することはない。私たち、衛宮の家の魔術を応用したものだ。固有時制御・・・・・・魔法のように私たちの外側に流れる時間に干渉するのでなく、私たち生物の内側に流れる時間を操るものだ。時間が永遠に凍り付けられたまま、と言えばお前にも分かりやすいだろうか。問題は、同じ理論を人間に応用できるかどうかだな・・・・・・」

 矢継ぎ早に理論をまくしたてる父に、少年は当惑したような表情を見せるだけである。そこに、

 「お待たせー!」と声を張り、シャーレイが駆け寄って来る。手には少年の父が持っていたものと同じ植木鉢の花がある。

 「シャーレイ、それ・・・・・・」

 「見て見て、あたしの初成功例!」

 「シャーレイが、助手の片手間に見よう見まねでな。彼女にはやはり、魔術の素養があるらしい」

 シャーレイの満足げな様子に感化されてか、少年が父を見上げてねだる。

 「父さん、僕もやってみたらダメかな?」「駄目だ」

 少年の申し出は一蹴される。

 「分かるだろう切嗣。お前はまだ幼い。どのみちその時が来たら、お前はやるべき仕事をやらねばならないんだ。焦らないで待っていろといつも言っているだろう」

 少年は肩をすかすが、しかし父の言いつけには納得しているのか大人しく頷く。

 3人は昼食をとり、実験に戻る。実験に参加するにはまだ幼いと父に判断されている少年は、離れの小屋で実験を進める2人を遠巻きに見ている。

 

 

 夜になっている。明かりは屋敷からわずかに漏れているだけだが、星明りが十分に島を照らしている。

 「じゃ、また明日ね」

 と笑顔でシャーレイは挨拶するが、すぐにその表情を失う。真顔で植木鉢が置かれた棚を見つめている。

 「・・・・・・どうしたの?シャーレイ」と、切嗣が訊ねる。

 「花をずっと咲いたままにするなんて、ほんと素晴らしい魔術だよ」

 「シャーレイだってやってるじゃないか」

 「あたしなんか花止まりだからさ。先生はもっと先に行ってるよ。先生の薬なら、人間の死は存在しないのと同じになる。・・・・・・あたしはさ、やっぱり先生の力を、世の中のために使って、みんなに分かってもらいたかったりするんだよね。先生はそれを諦めちゃってる」

 「でもケリィ、君ならきっとできると思う」

 少年は突然のシャーレイの発言に戸惑った様子を見せるが、微笑み直して、

 「なんだよ。父さんの一番弟子はシャーレイじゃないか。それをやるとしたらシャーレイだろう?僕じゃない」と言う。

 「あたしは弟子なんかじゃないよ。せいぜい助手がいいところ。雑用係。お手伝い・・・・・・」

 そこまで口にしてシャーレイは黙り込む。少年はシャーレイの視線の先を見やり、「あ」と間の抜けた様子の声をあげる。昼間シャーレイの持ってきた花が枯れ朽ちている。あたしの初成功例!実験は失敗に終わってしまった。彼女にはやはり、魔術の素養があるらしい。自分ではやはり魔術師には至らないのだと、そう失望しての弱音に見える。

 「あたしは、弟子でも何でもないのよ。・・・・・・ケリィ、君は間違いなく先生の後継ぎなんだよ。今の研究は、いつかケリィに引き継がせるために準備してるものばっかりなんだから。今はまだ、ちょっと早いってだけ」

 不意にシャーレイが少年の手を取る。「ね、ちょっと来て」

 

  屋敷から離れ、鬱蒼としたジャングルの中を2人は歩んでいく。

 「どこ行くんだよシャーレイ?」「そのうち分かるってば」

 シャーレイは再三投げかけられる少年の問いをはぐらかすばかりである。

 「・・・・・・神父さまがね、もうあの屋敷に行くなって言ってきかないの」

 少年の方を振り返らないまま、独白するようにシャーレイは語る。

 「じゃあ、シャーレイはもう来られなくなっちゃうの!?」

 少年は動揺したのか声を張り上げる。

 「今までみたいに毎日通うのは難しくなっちゃうのかも・・・・・・。だから私、あの実験はなんとしても成功させたかったんだ。枯れない花です!私たちはこんなに素晴らしいことをやっているんです!って、証拠を出して、村のみんなにも認めてもらえるように」

 「父さんが花を見せれば済む話じゃないか。父さんも、ちゃんと村の人とつきあえばいいのにな・・・・・・」

 「うん、どうかな・・・・・・。先生はもう、そういうの諦めちゃってるから。シモン神父とか、先生のこと目の敵にしてるからね。私もしょっちゅう説教くらうんだよ?『あのお屋敷で働いてたら、いずれ悪魔に魅入られる』って。ほらこれ」

 シャーレイは懐から短剣を取り出す。鞘には十字架が描かれている。

 「肌身離さず持ってろって、神父に押し付けられちゃった。霊験あらたかなお守りなんだって」

 少年はその短剣を手に取り矯めつ眇めつ見る。刃はよく砥がれており切れ味は十分にあるものと見える。短剣をシャーレイに返しながら少年は言う。

 「シャーレイはさ、怖くないの?父さんのこと」「全然」

 シャーレイは即答する。

 「確かに魔術の研究なんてさ、普通じゃないかもしれないけど、先生の知識や発見は、歴史に残ってもおかしくない、大変なものばっかりだもん。むしろ、凄い人だと思ってる。私もいつか、あんな大人になりたいもの。・・・・・・ほら、着いたよ」

 シャーレイは足を止める。そこはジャングルに流れる小さな川である。滝へ通じているのか、かすかに水の注ぐ音が響いている。澄んだ水が星空を鮮明に映し出している。水面で揺らぐ満天に感動したのか、少年は小さく感嘆の声を上げる。そのような少年の様子を微笑みつつ見やりながら、シャーレイは口にする。

 「私は先生みたいな大人になりたい。───ケリィはさ、どんな大人になりたいの?お父さんの仕事を引き継いだら、どんな風にそれを使ってみたい?世界を変える力だよ。いつか君が手に入れるのは」

 少年はわずかの間、返答に窮してのち、こう答える。

 「それは・・・・・・。そんなの、内緒だよ」

 語気を強めて語り、少年はシャーレイからそっぽを向く。顔を赤らめてそう突き放すように言う様は、照れ隠しに見える。

 「ふぅん・・・・・・?」

 シャーレイは薄笑いを浮かべ、必死な様子の少年に流し眼を寄越す。

 「じゃあ、大人になったケリィが何をするのか、あたしにこの目で見届けさせてよ。それまでずっと君の隣にいるから。いい?」

 「か・・・・・・勝手にしろよ!」

 少年は腕を組み、目をきつくつむってそう答える。シャーレイは満面の笑みを浮かべている。少年もかたくなな言動とは裏腹に満足げな様子に見える。満天の影がおだやかにたゆたう。そうして夜が過ぎる。二度と戻らない夜が過ぎる。

 

 

 ある日の朝、少年の父がいまだベッドで寝ぼけている少年のもとへ来るなり言う。

 「切嗣。昨日、私の工房に入ったりしていないだろうな?」

 目をこすりながら覚めやらぬ口調で少年は入っていないと答える。

 「そうか・・・・・・。切嗣、今日は村に行くな」

 それだけを言い残し少年の父は部屋を出る。少年は訝しげに眉根を寄せるが、やがて再びベッドへと戻り、もう一度眠り直す。

 やがて少年が起き出し、屋敷から出ずに時間をつぶす。日が暮れる。

 「シャーレイ、遅いな・・・・・・」

 と独り言をつぶやく。意を決したかのように立ち上がり、村へと降りていく。

 

 

  村へと着いた少年はシャーレイの家へ行く。窓から様子を伺うが人気がない。暗くなってきたにもかかわらず、明かりさえついていない。ノックにも物音一つ立たない。少年は家へと入り、そこで驚いたのか目を見張る。ひどく荒らされている。なぎ倒された家具にはみな獣の爪で引っ掻かれたような鋭い傷が走り、砕けた陶器や皿が床一面に散乱している。

 『あのお屋敷で働いてたら、いずれ悪魔に魅入られる』

 強盗が入ったようなありさまだが、しかしこの島にそのような犯罪はない。盗人がいないので、戸締りなぞ必要としない島である。おびえた様子の少年は足元に目をやる。細く斜めがちな字で、数字が羅列されたシールの貼られた瓶だけが、無傷で転がっている。

 少年の父特有の細く斜めがちな筆跡。

  その時、外から鶏の鋭い鳴き声と暴れる音が聞こえてくる。慌てて少年は飛び出す。音はシャーレイの家のすぐそばにある鶏小屋から聞こえてくる。そこには、月光に照らされ死人のような白い肌をした、シャーレイによく似た何かが座り込んでいる。それは逃げ惑う鶏を両手でわしづかみにして、部位を気にせずかぶりついている。水気の混ざった音がする。それは肉を喰らうのでなく、血をすすっている。少年の足音に気付いたそれは、紅い瞳をゆっくりとこちらに向ける。

 「シャー、レイ・・・・・・?」

 事態を噛みしめるかのように、ゆっくりとそれの目が見開かれて、それは叫ぶ。

 「違う、違うの!いや、見ないで、ケリィ・・・・・・!いや!いやぁっ!」

 それは少年から逃げだすように後ずさり、頭を掻き毟る。人の爪が立てるそれにしては異様に固い音が響く。爪は、不自然に長く鋭く伸びている。

 「違うの、私、認めて、ほしくて・・・・・・!飲んだら、変わって、みんな分かってくれるって!証明を!」

 証拠を出して、村のみんなにも認めてもらえるように。

 錯乱した様子で、それは顔を隠しながらきれぎれの言葉を続ける。

 「でもっ・・・・・・駄目っ・・・・・・ああっ・・・・・・!」

 うめき声を上げながらそれは頭を小屋の金網に叩き付ける。激しく身を反らしたその時、懐から短剣が少年の足元へこぼれ落ちる。

 不意に、それが動きを止めて、言う。

 「殺して」

 「それで・・・・・・お願い、殺して・・・・・・、君が、それでっ・・・・・・今ならまだ、きっと、間に合うから・・・・・・抑えきれなくなる前に、はやくッ・・・・・・!」

 聞き取れる言葉はそれきりである。そこからは、両手で金網をきつく握りしめ、獣のように前に出ようとする身体を制し、絶叫するばかりである。少年は、ゆっくりと、短剣を拾い上げる。刃はよく砥がれており切れ味は十分にあるものと見える。

 殺せ、という声にしかし少年は足を震わせ、逃げ出してしまう。

 シャーレイだったものの絶叫が少年の背中を追う。

 少年は、声を振り切るかのように、重荷を投げ捨てるかのように、泣きわめきながら走る。

 

 「ケリィはここで待っていなさい。私は村のものを呼んで様子を確かめに行く」

 逃げ込んだ協会の神父はそう少年に言いつける。少年は礼拝堂の裏、神父の自室の椅子に座り込んで頭を抱える。

 死人のような白い肌。血をすすっている。紅い瞳。

 「殺して」

 「あんな・・・・・・吸血鬼みたいな・・・・・・」

 少年はさらに身を縮こまらせる。呼吸は平静であるのに、その全身からは汗がとめどなくふき出している。時折震えるところを見ると、冷や汗に見える。冷や汗。

 「それにしても寒いな・・・・・・」

 少年は窓の外の様子をうかがう。窓からは、先ほどの化け物によく似た、島民だったものたちが、同じ島民を貪るさまが見える。明らかに人間のものではない雄叫びが窓越しに響いてくる。神父と連れ立った島民たちが、懐中電灯の明かりを頼りに集落を探索しているのが見える。と、明かりに反応して、化け物が神父たちへと殺到する。神父たちはなすすべもなく押し倒され、首元に噛みつかれる。やがて化け物は神父たちの死体を置き去りにして去り、神父たちの死体はゆっくりと立ち上がる。神父たちだった化け物は、一連の様子を見ていた少年に気付き、窓へと駆け寄って来る。

 少年は悲鳴を上げ、協会からも逃げ出す。少年の後ろからは窓が突き破られる音がする。

 

 集落を抜け、必死でジャングルを駆け抜けた少年は、やがてシャーレイに連れてこられた川へと辿り着く。一度も止まらずに駆け抜けてきた少年は、ひとまずの安堵からか川辺に座り込んで呼吸を整えている。手にはいまだ短剣が握られている。するとそこへ、足音がする。

 すぐに顔を向けると、そこには全身を血に染めた、シャーレイだった化け物がいる。

 「あ・・・・・・あ・・・・・・」

 少年は、いよいよ恐怖からか、喘ぐように口を空けることしかできない。

 「ケリィ・・・・・・。私ね、島のみんなのこと、殺しちゃった・・・・・・。殺しちゃったんだよ?ケリィ・・・・・・人って、あんな簡単に死んじゃうんだ」

 状況に不釣り合いな笑顔で、それは語る。

 「ケリィ・・・・・・ねえ、ケリィ・・・・・・どうして?どうして殺してくれなかったの?どうして私を人殺しの化け物にしちゃったの?どうして島のみんなを死なせちゃったの?」

 それは、笑顔を取り払い、泣き出しそうな幼子の表情で、叫ぶ。

 「どうしてよ!ねえっ、ケリィ!どうして!」

 少年はただ座り込んだまま、震えることしかできない。

 そこまで叫ぶとそれは完全な化け物に戻り、少年のもとへ走って来る。少年が無抵抗なままで座り込み、ゆっくりと目を閉じかけたその時、銃声が響く。

 横合いから、南国には不釣り合いな黒のレインコートを羽織った女が銃を構えて出てくる。女は続けざまにそれの体へ容赦なく撃ち込み、浅瀬に水しぶきをあげて倒れたそれの頭に止めの一発を決める。映り込む青の満天が、どす黒い紅色に汚されていく。

 「どうやら出遅れちまったみたいだけど、まだ話を聞けそうな生き残りはいて助かったね・・・・・・。さて、坊や、せっかく助けてあげたんだ。ちょっと付きあってくれるかい?」

 

 死徒。ナタリア・カミンスキーと名乗った女は化け物をそう呼び説明する。一般に言われる吸血鬼のようなものであること。生物としては死んでいること。魔性の証である紅い瞳を宿すこと。爪や牙が発達すること。人間を襲い血を吸うこと。吸われた人間は死に、同じものへと変貌すること。魔術的な素質を有するものは、理性を失くしたグールとは異なり人格を取り戻すこともあるということ。彼女にはやはり、魔術の素養があるらしい。そして何より重要なのが、自然には発生しないということ。死徒を連れて来た、あるいは人間がそれに変貌するための何らかの魔術を施した張本人が、この島のどこかにいるはずだということ。

 「さあ、それじゃあ坊や。こっちの質問にも答えておくれ。今回一番初めに死徒になった人間。そいつを作りだした悪い魔術師が、この島のどこかに隠れているはずなんだが・・・・・・、君、何か心当たりはないかい」

 

 

 少年が屋敷の玄関を開けるなり、「誰だ!」と少年の父が銃口を向ける。

 「ああ切嗣、無事だったか。本当によかった・・・・・・」

 少年を、父が相好を崩して掻き抱く。銃を傍らの机に置くと、すぐに渋面をとりなして叱る。

 「今日は村に行くなと言いつけておいただろう。なぜ私の言いつけを破った?」

 「シャーレイが心配だった」

 シャーレイの名を聞くやいなや、少年の父は目をそらす。昨日、私の工房に入ったりしていないだろうな?数字が羅列されたシールの貼られた瓶。飲んだら、変わって。

 「父さんは、彼女の身体に何が起こったか、知ってたんだね?」

 少年は淡々と問う。

 「あの子については本当に残念だ。試薬は危険だからけして触るなと何度も言っておいたのだがな・・・・・・。どうやら、好奇心には勝てなかったらしい」

 父もまた、冷静に返す。声に動揺の徴はないようである。

 「ねえ父さん、なぜ死徒の研究を?」

 「切嗣、お前どこでそれを・・・・・・」

 「父さんはいつか僕のことも死徒にするつもりだったの?」

 「馬鹿を言うな。愛する息子にそんなことするわけがないだろう。私が研究していたのは、あくまで永遠の時を生きるための身体、不死の身体の研究だ。手間暇かかった試薬も、結局吸血衝動を抑えられない出来損ないに終わってしまったがな。根幹から理論を見直さねばなるまい。もっとも不死化とて更なる研究のための手段にすぎんのだが・・・・・・。いかん、切嗣。この話の続きはあとにしよう。今は逃げるのが先決だ。すまんがお前に荷造りをさせている時間はない。じきに死徒どもがこの屋敷にも押しかけてくるだろう」

 「逃げられるの?ここから・・・・・・」

 「ああ。こんなこともあろうかと、以前から南側の海岸にモーターボートを隠しておいた。さあ、行くぞ」

 父はスーツケースを両手に取り、少年に背を向け玄関へと向かう。

 根幹から理論を見直さねばなるまい。

 「父さんは、研究を続けるんだね。これからも・・・・・・」

 今ならまだ、きっと、間に合うから。

 どうして殺してくれなかったの?

 悪い魔術師。

 絶叫。 

 「殺して」

 少年は、衛宮切嗣は、無防備な背中に短剣を突き刺す。それはたやすく切嗣の父の腹から切っ先を覗かせる。切れ味は十分にある。

 呼吸を荒げながらも、しかし切嗣は冷静に父が置いた銃を手に取り、頸、後頭部へと的確に撃つ。念のため、切嗣は背骨にも2発を撃ち込む。父は、切嗣の唯一の父は、断末魔もあげずに死ぬ。

 凄い人だと思ってる。私は先生みたいな大人になりたい。シャーレイが敬愛し、切嗣もまた愛した父があっけなく死ぬ。他ならぬ切嗣の手によって。

 震えた声を漏らしながら、切嗣は右手を振り回して、握りしめたきり手から離れない銃を振るい落とそうとする。何度も、何度も、何度も、腕を振る。その腕を、いつの間にか部屋に入り込んでいたナタリアが制し、やさしい手つきで指をほどく。手つきと裏腹にナタリアの顔は険しい。

 「・・・・・・ここの結界、わりと簡単に突破できたぞ」

 屋敷には父によって敷かれた、身内のもの以外を退ける結界が張られていた。

 「・・・・・・怒ってるのか?あんた」

 「そうと分かってりゃ、坊やにこんなことやらせはしなかった」

 「でも、あんたが間に合うかどうかは運任せだった。父さんは逃げた先で同じ研究を続ける。そこでまたこの島みたいな大惨事が起こらないよう、父さんを確実に殺すなら・・・・・・僕がやるしかなかった」

 「そいつは子供が親を殺す理由としちゃあ下の下だよ。それもこんな、悪魔みたいな巧さで」

 ナタリアは魔術師の死体を見る。子供が、それも実の息子がやったとは思えぬほどの正確さで殺されている。

 「そうなのかも、しれない・・・・・・」

 『あのお屋敷で働いてたら、いずれ悪魔に魅入られる』

 切嗣はナタリアの顔を見て、

 「あんた、いい人なんだな」と、まるで吹っ切れたような笑顔で言う。涙のあとは、見えない。

 「すぐにここを出るぞ。島の外までは連れ出してやる。・・・・・・何か持って行くものはあるかい?」

 

 「何もない」

 

 切嗣はナタリアの操縦するモーターボートに乗っている。両膝を抱え込み、ただ、燃え盛る島を眺めている。

 不意に、切嗣は空を見上げる。映り込む青の満天が、どす黒い紅色に汚されていく。星々はいつも変わらず輝き続けている。ただ、その光を映し込む澄んだ瞳は、もう、どこにもない。

 

まえがきと言い訳

Fate/Zero』という作品がある。

シナリオライター・小説家の虚淵玄によって著された、2004年発売の18禁(これはそこそこ大事なことだ)ゲームソフト、『Fate/Stay Night』のスピンオフ小説だ。主人公の養父、衛宮切嗣のゲームでは描かれなかった生涯と戦いを描く物語である。単刀直入に書くと、僕はこの小説のある部分を自分で書き直したい、原作のそれとは異なる演出で再上映したいと以前から考えていた。衛宮切嗣の過去編だ。彼の少年期と青年期、つまり戦う理由のバックグラウンドを描く部分である。原作小説では【Interlude】と銘打たれ(これはゲーム原作でもしばしば用いられた章題だ)、その分量は30と数ページほど。「ここ大好きなんだけどこういう書き方したらもっと効果的、と言うか、自分好みのものになるんじゃないかな~」とか思っていた。プロに対して完全に上から目線。そんなわがままリライトだが、まあ個人のブログなんだ。許せ。

 

先に言い訳を書いておこう。「同じ物語をわざわざ伝え直す、それもメディアミックスではなく同じ小説と言う形で。そんなことに意味があるのか?ネットスラングを用いれば、『チラシの裏のオナニー』ではないのか?」当然こうしたことは僕も自問自答した。わざわざレーモン・クノーの『文体練習』も読んだ(知らない人はググってほしい)。だがこうして書く以上は、多少の勝算があるということだ。ただの自慰に終わらぬだけの勝算が。原作、引いては読者に何か実のあるものを与えられるのではないか。読者がこのリライトから原作やその外側へのパララックス・ビュー(ここでは上坂すみれよりスラヴォイ・ジジェクのことを考えてほしい)を得られたのなら、それはとっても嬉しいなって・・・・・・。

うそ

 小説というのはどれも密かな神殺し、象徴としての現実の殺害に他ならない。

(マリオ・ガルバス=リョサ『ガルシア=マルケス/ある神殺しの歴史』)

 

ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』を読んだ。

 

肺の中で睡蓮が生長する奇病にかかった美人な嫁、クロエとの愛を綴る物語だ。

もうこの1行でなんのこっちゃよくわからんのだが、小説を読めばもっとそうなるはずだ。ぐだぐだ説明するより引用した方が手っ取り早いだろう。以下、引用。

 

・「鰻が一匹いるんだよ。毎日水道管を通って洗面所にやって来ていたんだ」

・スケーターはリンクの反対側の端の、レストランの壁にぶち当たって、潰れてしまったからだ。

・「花屋は決して、鉄のシャッターを降ろさない。誰も花を盗もうなんてものはいないからだ」それは当然だ。彼は、オレンジ色と灰色の蘭を摘み取ったが、(言ってるそばから盗んでる)

・ついでに、おしゃぶりの形にシャボンをかじり取ったのだった。

・突然、不協和音がした。というのは、オーケストラの指揮者があまり縁に寄りすぎて、虚空に落っこちてしまい、副指揮者がその代わりになったからだ。

 

未読の方は「は?」と思っただろう。僕も思った。大げさな比喩ではなく、これらはあくまで小説世界内では事実として見なされる。潰れたスケーターも、虚空に落っこちた指揮者も、その1行で死に、誰もそれを不思議に思わないのだ。読者はこうした文章の連続を、どう受け止めればよいのだろうか。もちろん小説の読み方に正解なんてないのだが、僕なりの回答(≠解答)を提示すればこうだ。徹底的な現実への反逆と純粋な愛情の希求から来る技法である、というもの。これについて詳しく説明する前にちょっと寄り道が必要だろう。

 

そもそも嘘とはなんだろう。広辞苑(第6版)によれば、「真実でないこと。また、そのことば。いつわり。」とある。真実でないことば。「筆者は女性である」とか、「筆者は80過ぎの老人である」とか、「筆者は新宿煮干しラーメン凪が大好きである」とか。これらは嘘と言って差し支えないだろう。少なくとも僕には真実でないことだと確信できるからだ。じゃあ真実ってなんだ・・・・・・?とか考えるともう収拾がつかなくなるのでやらない。とりあえず、真実は真実だ。われわれの存在して、生きるこの世界で確実な現実だとされていることだ。それに背くこと、つまり偽ることにどんな意義があるのか。人を騙して利益を得る意義。すぐ思いつくのはそんなとこだろう。実際、日常においてはそうだ。僕もよくやるしやられる。

 

でも今考えたいのは小説における嘘の意義だ。ここらで話を『うたかたの日々』に戻そう。先述のように考えれば、『うたかたの日々』は嘘の連続だ。鰻が毎日水道管を通ってでてくることも、スケーターがぺしゃんこに潰れることも、シャボンをおしゃぶりの形にかじり取ることも、真実ではない。この世界でそんなことはありえない。あったとしても、それが何気ない日常に紛れ込むことはない。多分ニュースとして取り沙汰されるだろう。何故ボリス・ヴィアンはそんな嘘を書くのか。この世界、西暦2016年で人口数十億で、毎日どこかで人が生まれ毎日どこかで人が死ぬ、この世界、それを容赦なく支配する理、真実では、彼の書きたい恋愛を伝えるのに不十分だったからだ。現実では人間に役不足なのだ。

 

人は嘘をつく。嘘とは現実、真実でないことである。その人はそれを信じさせようとする。いま、ここではない別の世界へ、他人を攫おうともくろむ。それは、その人たちがいる現実の世界に不満があるからではないだろうか。現実が楽園なら、別にわざわざ違う世界へ行かなくてもいい。よりよい場所へと至りたいと思えばこそ、人は嘘でそこへの橋を架けるのではないだろうか。おそらくはヴィアンもこうした動機で嘘を書くのだ。彼の書きたい恋愛は、美しく、繊細で、それでいて痛ましい、およそ現実では見受けられないほどに純粋なものだ。現実ではほぼ確実に不可能だ。なら、別の世界で実現させればいい。真実にすればいい。それゆえにこの小説は嘘に満ち満ちている。一歩ごとにこのクソみたいな現実から全力で遠ざかり、すばらしき新世界へと辿り着くためだ。徹底的な現実への反逆と純粋な愛情の希求。先ほどこのように書き著したのはこうした考えによる。

 

話を拡げる。しかし考えてみれば、何もこれはヴィアンに限った話ではない。小説、漫画、映画、演劇、アニメ。媒体を問わずフィクションとは、みなこのような性質を持つだろう。今日もどこかで、あの手この手で、現実への反逆がなされている。いまここより少しでもマシな世界という嘘を信じさせ、人々をそこへ導こうとする。はるか昔サルもどきたちはよりよい場所を求めてアフリカを旅立った。それから膨大な時間が流れ、地球中にサルもどきたちは散らばった。地理的にはもう新天地がなくなってしまったので、サルもどきたちは言葉の次元でそれを求める旅を続けているのかもしれない。この記事より端的に、それでいて鋭く、僕の言いたいことを言い表している小説の一文を引用して筆をおこう。

 

旅に出るのは、たしかに有益だ。旅は想像力を働かせる。

これ以外のものはすべて失望と疲労を与えるだけだ。

僕の旅は完全に想像のものだ。それが強みだ。

それは生から死への旅だ。

ひとも、けものも、街も、自然も、一切が想像のものだ。

これは小説、つまりまったくの作り話だ。

辞書にもそう書いてある。間違いない。

それに本来、これは誰にだってできることだ。

目を閉じさえすればいい。

すると人生の向こう側だ。

(ルイ・フェルディナン・セリーヌ『夜の果てへの旅』)