長文集

長い文章

うそ

 小説というのはどれも密かな神殺し、象徴としての現実の殺害に他ならない。

(マリオ・ガルバス=リョサ『ガルシア=マルケス/ある神殺しの歴史』)

 

ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』を読んだ。

 

肺の中で睡蓮が生長する奇病にかかった美人な嫁、クロエとの愛を綴る物語だ。

もうこの1行でなんのこっちゃよくわからんのだが、小説を読めばもっとそうなるはずだ。ぐだぐだ説明するより引用した方が手っ取り早いだろう。以下、引用。

 

・「鰻が一匹いるんだよ。毎日水道管を通って洗面所にやって来ていたんだ」

・スケーターはリンクの反対側の端の、レストランの壁にぶち当たって、潰れてしまったからだ。

・「花屋は決して、鉄のシャッターを降ろさない。誰も花を盗もうなんてものはいないからだ」それは当然だ。彼は、オレンジ色と灰色の蘭を摘み取ったが、(言ってるそばから盗んでる)

・ついでに、おしゃぶりの形にシャボンをかじり取ったのだった。

・突然、不協和音がした。というのは、オーケストラの指揮者があまり縁に寄りすぎて、虚空に落っこちてしまい、副指揮者がその代わりになったからだ。

 

未読の方は「は?」と思っただろう。僕も思った。大げさな比喩ではなく、これらはあくまで小説世界内では事実として見なされる。潰れたスケーターも、虚空に落っこちた指揮者も、その1行で死に、誰もそれを不思議に思わないのだ。読者はこうした文章の連続を、どう受け止めればよいのだろうか。もちろん小説の読み方に正解なんてないのだが、僕なりの回答(≠解答)を提示すればこうだ。徹底的な現実への反逆と純粋な愛情の希求から来る技法である、というもの。これについて詳しく説明する前にちょっと寄り道が必要だろう。

 

そもそも嘘とはなんだろう。広辞苑(第6版)によれば、「真実でないこと。また、そのことば。いつわり。」とある。真実でないことば。「筆者は女性である」とか、「筆者は80過ぎの老人である」とか、「筆者は新宿煮干しラーメン凪が大好きである」とか。これらは嘘と言って差し支えないだろう。少なくとも僕には真実でないことだと確信できるからだ。じゃあ真実ってなんだ・・・・・・?とか考えるともう収拾がつかなくなるのでやらない。とりあえず、真実は真実だ。われわれの存在して、生きるこの世界で確実な現実だとされていることだ。それに背くこと、つまり偽ることにどんな意義があるのか。人を騙して利益を得る意義。すぐ思いつくのはそんなとこだろう。実際、日常においてはそうだ。僕もよくやるしやられる。

 

でも今考えたいのは小説における嘘の意義だ。ここらで話を『うたかたの日々』に戻そう。先述のように考えれば、『うたかたの日々』は嘘の連続だ。鰻が毎日水道管を通ってでてくることも、スケーターがぺしゃんこに潰れることも、シャボンをおしゃぶりの形にかじり取ることも、真実ではない。この世界でそんなことはありえない。あったとしても、それが何気ない日常に紛れ込むことはない。多分ニュースとして取り沙汰されるだろう。何故ボリス・ヴィアンはそんな嘘を書くのか。この世界、西暦2016年で人口数十億で、毎日どこかで人が生まれ毎日どこかで人が死ぬ、この世界、それを容赦なく支配する理、真実では、彼の書きたい恋愛を伝えるのに不十分だったからだ。現実では人間に役不足なのだ。

 

人は嘘をつく。嘘とは現実、真実でないことである。その人はそれを信じさせようとする。いま、ここではない別の世界へ、他人を攫おうともくろむ。それは、その人たちがいる現実の世界に不満があるからではないだろうか。現実が楽園なら、別にわざわざ違う世界へ行かなくてもいい。よりよい場所へと至りたいと思えばこそ、人は嘘でそこへの橋を架けるのではないだろうか。おそらくはヴィアンもこうした動機で嘘を書くのだ。彼の書きたい恋愛は、美しく、繊細で、それでいて痛ましい、およそ現実では見受けられないほどに純粋なものだ。現実ではほぼ確実に不可能だ。なら、別の世界で実現させればいい。真実にすればいい。それゆえにこの小説は嘘に満ち満ちている。一歩ごとにこのクソみたいな現実から全力で遠ざかり、すばらしき新世界へと辿り着くためだ。徹底的な現実への反逆と純粋な愛情の希求。先ほどこのように書き著したのはこうした考えによる。

 

話を拡げる。しかし考えてみれば、何もこれはヴィアンに限った話ではない。小説、漫画、映画、演劇、アニメ。媒体を問わずフィクションとは、みなこのような性質を持つだろう。今日もどこかで、あの手この手で、現実への反逆がなされている。いまここより少しでもマシな世界という嘘を信じさせ、人々をそこへ導こうとする。はるか昔サルもどきたちはよりよい場所を求めてアフリカを旅立った。それから膨大な時間が流れ、地球中にサルもどきたちは散らばった。地理的にはもう新天地がなくなってしまったので、サルもどきたちは言葉の次元でそれを求める旅を続けているのかもしれない。この記事より端的に、それでいて鋭く、僕の言いたいことを言い表している小説の一文を引用して筆をおこう。

 

旅に出るのは、たしかに有益だ。旅は想像力を働かせる。

これ以外のものはすべて失望と疲労を与えるだけだ。

僕の旅は完全に想像のものだ。それが強みだ。

それは生から死への旅だ。

ひとも、けものも、街も、自然も、一切が想像のものだ。

これは小説、つまりまったくの作り話だ。

辞書にもそう書いてある。間違いない。

それに本来、これは誰にだってできることだ。

目を閉じさえすればいい。

すると人生の向こう側だ。

(ルイ・フェルディナン・セリーヌ『夜の果てへの旅』)