長文集

長い文章

21世紀版ゴールドラッシュ

ああ 私の魂よ 不死の生に憧れてはならぬ。

可能なものの領域を汲みつくせ。(ピンダロス『ピュテイア祝捷歌第三』)

 

 うんこの話から魂の話に繋がる荒唐無稽な記事だ。

 まあ、とりあえずこの動画でも見てくれ。

   

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  うんこは本物ではないのかもしれないが、それはこの際どうでもいい。僕がこの動画を見て抱いたのは「インターネットでの注目を集めるためにそこまでしてしまうのか?これでは尊厳を切り売りするピエロじゃあないか?いや、ピエロにだって元来、宮廷のエンターテイナーとしての誇りはあった。これじゃあ奴隷よりも酷くないか?心は錦の奴隷でさえ、注目それだけのために自らを貶めることはなかったろうに・・・・・・」という疑問と狼狽だ。

 

 2016年、外国ではどうだか知らないが、(まあどうせよその国でも同じようなバカが同じようなことをやっているのだろうが)少なくとも「いいね!」のためだけにうんこを食べる国がある。そういう性癖で望んで食べる、あるいはそういう性癖の変態から金を稼ぐため嫌々食べるのならともかく、食糞をすすんで行う奴がいる。注目とサムズアップアイコンのために。

 おそらくそれは誇りに基づいた行動ではない。「人から面白いと評価されること、それが誇りだ」と彼らはうそぶくかもしれないが、自らの裡に根付いていない行動原理は虚しいものだ。それこそピエロのように踊らされているだけだ。

 それゆえ、そこには尊厳がない。彼らは尊厳を切り売りしているのだ。(いや、売ってさえもいないのか)

 

 尊厳。行動の後付けで貼り付けられる観念にすぎなくとも、やはりそれは我々にとって解体してはならないブラックボックスであるはずだ。越えてはならない一線。失ってはならないもの。これは出典も真偽もあやふやな情報だが、なんでも太古のウホウホどもでさえ同類が死んだときには手を合わせた、つまり祈りのようなジェスチャーを取ったのだという。我々の血には脈々と息づいた、侵すべきでない美徳があるのだろう。性善説を唱えたいわけではないが。

 

 そんな尊厳が喜々として侵されているのを僕たちは動画で目撃する。

 

 う~むと考え込む君たちをよそに僕は、伊藤計劃という夭折したSF作家の『ハーモニー』なる小説を思い出す。

 あらすじを大まかにまとめると、(以下ネタバレにつき文字反転)この小説のラストではほぼ全人類が固有の意識を剥奪、データ化したそれらをサーバーで一元管理され、感情でさえもプログラムのコードのようにタグ付けされてしまうのだ。

 人間の意識でさえも0と1に書き換えられるのなら、魂はどこにある?そんなもの、もうどこにもない。鮮やかなまでの断言を叩き付けて物語は幕を閉じる。

 

 およそ考えうる限りの中でも最大のブラックボックスである魂、それでさえも時の流れと進み切った科学にひん剥かれるかもしれないぞ。そういう可能性がどこまでもリアルに示されるのである。

 

 だが本当に可能性だけか?僕たちは現に尊厳が陥落する様を見たではないか。尊厳やア・プリオリな倫理、記憶、感情、そして魂。人間性と見なされてきたなんもかんも、丸裸にされてバラバラにされるだろう。原因は何であれそれは避けられないのだろう。これは単に行き過ぎた悲観かもしれない、だが見積もる程度に差こそあれ問題は間違いなくここにある。

 しかし「だから黙って『よいではないかよいではないか』されるその日を待て」というのは、死刑宣告と同じだ。潮はどう足掻こうと満ちるが、陸地へ逃げることはできるはずだ。

 

 と、いうことで僕はここに一つ提案を書く。善き人間性のブラックボックスが片っ端から荒らされてゆくのなら、新たな箱を生み出し続ければいいのではないか。魂の鉱脈を掘り起こせ。数千年をかけて探ってもなお未知の領域なのだ。その気になればいくらでも見つかるはずだ、「乳と蜜の流れる場所」は。

 

 僕の大好きな小説、『ディスコ探偵水曜日』の主人公のセリフで記事は終わる。

そういう燃料を時々注入されながら世界は毎日を正しく良き方向に生きていくしかないのだ。(ディスコ・ウェンズデイ)