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長文集

長い文章

ケツからブラックホール

吼えろ。

トリスタン・ツァラ『七つのダダ宣言』)

 

 腐女子と呼ばれる連中は作品に対して「尊い」と評価をしばしば下すのだが、そんなこと言われても興味がない人々にとっちゃ「はあ、そうですか(何言ってんだこいつ)」で終わりだ。

 あるいは別の例を挙げても構わない。『君の名は。』に対して「エモい!」しか言わない男、『逃げるは恥だが役に立つ』に対して「ヤバい!」しか言わない女、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』に対して「美しい」しか言わない狂信者(僕のことだ)、黙って神様を信じなさい不心得者が、わからんやつにゃセンスがねえ、うんぬんかんぬんエトセトラ・・・・・・。

 

 要は距離の問題である。なにごとかに心を動かされたとき、そしてその心の動きを人に伝えたいとき、説明をなるたけ分かりやすくするのには不可欠な冷静さと客観がすっからかんだと、その目的は果たされないのだ。論理にもとる言葉は、発言者にしか伝わらない。いやそもそも発言者にだって把握できているか怪しいものだ。

 気違いじみた支離滅裂な発言で場を切り抜けようとしたハムレットが誰にも理解されなかったのがいい証拠だ。

 伝達に必要なのは論理であり、それは冷静さと対象化(伝えたいことと自分との間に距離を置き、客観的たるべくその立ち位置を保とうとし続けること)の態度からしか生まれえない。

 スカイツリーがどんな建物かを説明するのに、展望台からの景色だけを人に見せるのは馬鹿だろう?全体を撮影するには、遠くからカメラを構えねばならない。伝達に必要なのは、伝達されることと自分との間の距離なのだ。

 

  だから、「尊い!」「エモい!」「美しい・・・・・・(呆)」だなんて発言は、伝達として0点である。対象と話者との距離がゼロだからだ。(もっともこれは、距離が大きいほど伝達として出来がいいということではない。何事にも適切な距離というものがある。遠ければ遠いほどいいってもんでもないのだ)

 先のスカイツリーの例で書けば、全景が見たい人に展望台からの景色しか見せない馬鹿である。

 もっとも、これは致し方のないことではあるのだが。どういうことか。

 彼らは感動のあまり、対象とがっちり結びついて離れられなくなったのだ。そうしたキメラたちに、もはや言葉が発せられるはずもなく、ただの唸りを響かせるのみ。理解ある人ならともかく、そうでない他人にとっちゃ耳障りな雑音にすぎない、悲しいことだが。

 

 しかし論理で人は動かない。縛られることはあっても。

 

 ここで僕の頭に浮かぶ考えを表す言葉のド頭は「でも」だ。

 「でも、そんな唸りの中にだって人を動かすものがあるんじゃないの?」

 そして次に浮かぶ考えはこう。

 「そりゃあ、今までもあったしこれからもあるだろう」

 そのはずだ。論理もクソもない咆哮が、不思議な引力で耳にした者を引きずり込み、そいつを決定的に変えてしまう。そんな危険すぎる叫びがこの世界には確かに存在する。その叫びに籠められたものが善意にせよ悪意にせよだ。

 まるで『新世紀エヴァンゲリオン』の人類補完計画のように、自分とそれ以外の境界線をどろどろに溶かし尽くしてすべてを一つに変えてしまおうとうごめく不気味なもの、人間をたやすく溶かすほどの灼熱。セイレーンもびっくりの歌声だ。

 

 美というのは、ランボー風に書けば本当に尻軽のあばずれで、宿る場所を選ばない。叫びの大半が掻き消えていく中、ふとした隙をついて、その中のどれかに取り憑く。そうして取るに足らぬ雑音を、「咆哮」とでも書き表すべき恐ろしい脅威に変貌させてしまうのだ。

 あるいは19世紀みたいに、そんなあばずれが振り向いてくれるのを指をくわえて待たずとも、厳密な計算とひとさしの狂気で、力づくに振り向かせる人々もいる。天才と呼ばれる人々だ。真の天才が一握りなのは、こんな強姦魔が何人もいちゃあたまらないから勘弁してくれという世界からの泣き言が理由なのかもしれない。

 叫びに美が宿る。それは咆哮になる。それは熱を持つ。しかも、その熱は伝染る。

 とにかく偶然にせよ、必然にせよ、美が宿る声は論理の鎖を引きちぎってわれわれを音の鳴る方へ引きずり込む。おにさんこちら、てのなるほうへ・・・・・・。

 

 ところで、僕はわりかし無責任な気質だ。始めに書いたようにマッドマックスが大好きで、本気であんな荒廃が訪れたって構わないと思っているほどだ。世界がどうなろうと知ったこっちゃないのだ。「今から数ヶ月後、地球に隕石が落ちてきて全人類滅亡します!」とか映画の『アルマゲドン』みたいにいきなり言われたらちょっとなあ、やだなあ、とは思うけど。だから無責任に破滅へ真っ逆さまな咆哮が地球の鼓膜をぶち抜いても、別にいいんじゃない?とか思ってしまう。アメリカに「虐殺の文法」(伊藤計劃)が蔓延するのも大歓迎だ。

 名作アクションゲーム、『THE LAST OF US』でもこう言っていた。

 「どうせ最後には、みんなおかしくなっちゃうんだから」

 

 だから人類史の行方なんてさっぱり忘れて、どいつもこいつも叫ぶといい。ただ叫ぶのではない。死ぬ気で叫ぶといい。さすればあるいは、無様な咆哮を高らかな凱歌に、黙示録のラッパに変えられるかもしれない。

 

 ・・・・・・ちなみにそんな壮大な話はともかくとして、僕は感想に「エモい」を使われるのが嫌いだ。イラッとする。これはそんな日常のしょうもない苛立ちから生まれた、無責任で下品で荒唐無稽な文章だ。おしまい。